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奥井遼研究員の論文が『教育哲学研究』第107号に掲載されました

 奥井遼研究員(上廣こころ学研究部門)の論文「身体化された行為者(embodied agent)としての学び手 ーメルロ=ポンティの『身体』概念を手がかりとした学びの探求ー 」が、『教育哲学研究』第107号(発行:教育哲学会/2013年5月)に掲載されました。


 からだを使ったわざの習得に関わる行為と言語のやりとりに注目し、教育における「学び」の再検討を研究課題としている奥井研究員は、本論文においてメルロ=ポンティの現象学的身体論を土台に、クロスリーの「身体化された行為者」という観点から行為論を検討。様々な議論を取り上げながら、相互交流的な「身体による学び」の作用からその先の展望までを丹念に論じています。


奥井遼(2013)身体化された行為者(embodied agent)としての学び手 ーメルロ=ポンティの「身体」概念を手がかりとした学びの探求ー . 『教育哲学研究』107号 60-78


IMG_7755.jpg一 「主体としての身体」と教育
二 メルロ=ポンティの行為論 ー身体は個別的なものか?
三 身体図式の組み替えとしての学び
四 言語=所作の獲得における身体の「転調」
五 学びの共同性ー個から個、から「共同作業」
おわりに ーミクロな相互行為の記述に向けて


 身体化された行為者にとって学びとは、教え手との行為の編み目のなかで、自らを越え出て、自らを越え出たものを取り込みながら変容していく営みである。その学びは、絶えざる相互交流のなかにあるために、常に現在的で流動的である。とすれば、教育的な意図や、管理的な力といったものでさえ、そうした現場を活性化させる項の一つとして位置づけることができる。例えば、表象的な記号操作のみを強化するかのような「塾」という場は、「偏差値」や「受験」などの力によって方向づけられているがーーたとえそれが、かつての村落共同体や職業集団が培ってきたような参加型の教育システムとはかけ離れたものであったとしてもーー、それでも学び手は、教え子とのミクロで相互的な交流のなかにあって学習の場を行きた世界として経験しているのである。
 そうした相互交流的な学びの作用は、漫然と居合わせるだけでは体感されないし、体感することによって変容していくことだろう。哲学的な記述と、身を投じた行為との、どちらに傾くともなく追求し続ける態度を徹底させることによって、そうした作用にまなざしを向けていくことが求められている。


(論文より抜粋)


教育哲学会公式サイト