人間椅子:神経科学版

  • 2008-12-04 (木)

前回は幽体離脱実験を紹介したので、ついでにもうひとつ恐怖夜話を。やっと冬らしくなってきたのにすいません。

江戸川乱歩の小説に『人間椅子』というのがあります。これは主人公の女性が、自分がいつも座っていた大きな椅子の中に、実は見知らぬ男が入っていたらしいという事実を知るという気持ち悪いストーリーなのですが、今回紹介する研究は、まさしくそんな感じの不気味な話です。この話は本当に恐いよ!

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てんかん(癲癇)」という病気がありますよね。脳の神経細胞の異常発火によって生じる病気で、通常は抗てんかん薬というものが処方されるそうですが、外科的手術が有効な場合があるそうです。外科的処置を行うためには、当然その患者さんの脳の状態をよく知る必要があるわけですが、そのためには脳に直接電極を埋め込み、電気刺激を送って、脳神経の地図を描かなければなりません。


このように脳細胞を直接電気で刺激するという手続きがヒトで行われることは非常に珍しく、学問的に大変貴重な機会です。そこで、この手術を受ける患者さんにお願いして、実験データを取らせてもらうことがあります(*1)。今回紹介する実験も、そうした患者さん(女性)のご協力に基づいたものです。

さて本題ですが、この患者さんの左の脳のうちから、側頭・頭頂連結部(Temporo-Parietal Junction; 略して TPJ。日本語だとややこしいので、以下 TPJ と呼びます)という部分を電気刺激したところ、彼女は「自分の後ろに誰か知らない男がいる!」という報告をしたそうです。それは非常に不快な感覚だったそうです。

彼女が仰向けに寝ているときには、そのベッドの下にやはり見知らぬ男が寝ている感覚が、座って膝を抱えている時には、後ろから知らない男に抱かれている感覚が(うー、嫌ですね)、座って本を読んでいる時には、後ろから誰かが手を出して、読むのを邪魔しようとする感覚が、感じられたそうです。

こうした不気味な感覚については、精神疾患(たとえば統合失調症)や神経疾患の患者さんでいくつか報告があるそうで、この実験を行った研究者たちは、TPJへの電気刺激は、それを再現したものだろうと考えています。

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で、この「影の男」の正体は何なんでしょうか? よく読んでもらえれば分かるのですが、この男、実は患者さんの動きを忠実に模倣しているようなんですね。つまり、患者さんは、おそらく自分自身の身体を感じていたようなのです。ところが、その身体の空間的位置が、なぜか自分の後方にずれてしまっていて、その結果、その体が自分のものであるという感覚を失っていたのではないか、と考えられます。患者さん本人には、この影の男が、実は自分自身の体なのではないか、という考えは、まったく思い浮かばなかったそうです。

この実験で電気的に刺激したのは、TPJという脳の場所です。このTPJは、様々な感覚(視覚とか触覚とか)を統合的に処理する場所だと考えられています。またこの場所が、自分と他人の区別をする時に活動していることも知られています。これらのことから、TPJの活動が適切でないと、自分自身の体についての感覚がおかしくなり、まるで見知らぬ他人が自分のそばにいるような感覚が生じたのではないか、と推測されています。とは言うものの、TPJの機能については、まだまだ分からないことだらけです。おまけにこの患者さんはもともと(前回の記事でご紹介したような)幽体離脱体験も繰り返し経験している方だそうなので、この実験データからだけでは、TPJと身体認識との関係についてはっきりしたことは言えないと思われます。ですが、少なくともこの研究によって、TPJが「自己意識」や「自己の身体感覚」にとって非常に重要な役割を果たしている可能性が示された、と言うことはできるでしょう。

前回ご紹介した記事でも言いましたが、自分が「自分」であるということは、一見神秘的で哲学的な問題に見えます。けれども、自然科学、特に脳機能の研究によって解明できる部分もたくさんあるようですね。

*1 もちろんこうした同意を患者さんからもらい、実験を行うに当たっては、厳密な倫理規定が設けられています。

Induction of An Illusory Shadow Person(幻覚の影の人物の誘導)
Arzy, S., Seeck, M., Ortigue, S., Spinelli, L., Blanke, O. (2006), Nature, 443(21), 287.
doi: 10.1038/443287a

- Illustration by Shinya Yamamoto.

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