脳の省エネ大作戦

  • 2009-05-07 (木)

惨めな思いをしたりつらい状態に追い込まれたとき、私たちはそれを「痛い」と感じます。
また、他人からほめられたりラッキーな思いをしたとき、それを「おいしい」と表現することがあります。
これらの言葉は比喩として用いられているように見えますが、脳の中を見てみると実はそれが単なる比喩とは言い切れないことが最近の研究で分かってきました。

針で刺されたりつねられたりしたときに人は痛みを感じますが、そのとき脳の中では前部帯状皮質という部分が反応することが知られています。
こうした痛みは物理的な刺激によって生じるものですが、こころがちくりと痛むような場合も、なんと脳の中では同じ部分が反応しているようです。

Takahashi et al.(2009)*1による研究では、実験参加者を脳の活動を測定する機械の中に寝かせ、そこで自分より成功している人のことを想像させました。
つまり自分が劣等感を持つような状況を人工的に実験室内に作り出し、実験参加者に精神的な「痛み」を感じさせたのです。
するとどうでしょう。
物理的な痛みを感じることで反応を示す前部帯状皮質が、精神的な痛みを感じる場合でも活性化したのです。
我々は普段の生活で精神的な苦痛を「痛い」と比喩的に表現していますが、実は脳はそうした苦痛を本当の「痛み」として感じているようです。

この研究では、痛みだけでなく「おいしい」という感覚にも同じようなことが言えることを、別の実験により示しています。
今度は先ほどと違って、実験参加者に今まで恵まれた立場にいた人に突然の不幸が襲うという状況を想像させました。
言葉は悪いですが、「ざまあみろ」という感情を実験参加者に引き起こさせたのです(ちなみにこの感情のことを心理学では「シャーデンフロイデ」と言います)。
さてこのような感情を生起させたところ、今度は脳の中の線条体という部分が反応することが明らかになりました。
この線条体はおいしいものを食べたり、お金がもらえたりしたときに活性化することが知られており、生物が生きる上でなんらかのプラスになるできごとに対して反応することから報酬系とも言われています。
つまり、この実験に参加した人々は他人の不幸を「おいしい」と感じていたわけです。
「他人の不幸は密の味」というのは比喩的に用いられる言い回しですが、脳としては他人の不幸は本当に甘いもののようです。

さてここまで見てきたように、脳はどうやら似たようなできごとに対して同じ部位を使いまわしているようです。
痛みに関しては肉体的であれ精神的であれ前部帯状皮質が、おいしさに関しては線条体が、というようにです。
それではなぜこうしたことが起こったのでしょうか。
それはおそらく、脳が省エネ戦略をとったためと思われます。
illust_20090507.jpg

もし、一つ一つのできごとに対して脳がそれぞれの別の部分を割り当てると、あっという間に脳はパンクしてしまいます。
そこで脳は、似たようなできごとを一つの部分でまとめて処理するようになったと考えられます。

痛みの場合は、もともと外部からの物理的な痛みに反応する部位として前部帯状皮質が備わっており、それが自分の生存を脅かす低い評判やぞんざいな取り扱われ方といった状況でも反応するようです。
また、もともとはおいしさを感じるために使われていた線条体が、直接的な栄養にはならないが自分の生存を有利にするような高い評価や金銭的報酬に対しても使われているようです。
こうした、すでに備わっている形質があるとき別の役割を持つようになることを、進化生物学では「外適応」と言います。
本来は体温調節のためにうちわの一種として進化してきた鳥や昆虫の羽根が、いつのまにか飛ぶための道具として用いられるようになったことが、この外適応の代表例として挙げられます。
人間の脳ももとからあった部位をなんとかやりくりしながら、新たに生じたできごとに対応してきたのかもしれません。

なお、一つの脳部位が複数のできごとに対して共通して使われている可能性は、近年様々な研究によって示されています。
例えば、仲間はずれにされたときに感じるこころの痛みを、脳はやはり物理的な痛みと同じように感じているようです。*2
また、他人から自分は信頼できる人間であると評価されると、お金をもらったときと同じようにそれを一種のご褒美として感じていることも指摘されています。*3
このような研究が進むことで、とても複雑に思える人間のこころの働きが、案外単純な脳の仕組みで成り立っていることが徐々にわかってくるかもしれません。

今回は田村が担当いたしました。
脳とこころの不思議な関係について、今後もいろいろと紹介していきたいと思います。


*1
When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude.
Takahashi. H, et al. (2009).
Science, 323, 937-939.
DOI: 10.1126/science.1165604

*2
Why rejection hurts: a common neural alarm system for physical and social pain.
Eisenberger, N. I. & Lieberman, M. D. (2004).
TRENDS in Cognitive Sciences, 8, 294-300.

*3
Processing of Social and Monetary Rewards in the Human Striatum.
Izuma, K., Saito, D. N., & Sadato, N. (2008).
Neuron, 58, 284-294.
DOI 10.1016/j.neuron.2008.03.020

- Illustration by Shinya Yamamoto.

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