人はどれだけ覚えられるのか

  • 2010-07-08 (木)

私たちはとても多くのモノ、コトを覚えて生活しています。例えば、13才児童の語彙量は3万語前後という報告があるそうです。生まれた瞬間から毎日単語を覚えていったとしても、一日あたり平均6.3語ほど新しい単語を覚えてきたことになります(閏年を無視して一年=365日で計算した場合)。中学高校で英単語を覚えるときにした苦労を思うと、母語を覚えるときの記憶力にビックリします。
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それでは、私たちはいったいどれくらい沢山のコトを覚えることができるのでしょうか?そもそも記憶力に限界はあるのでしょうか?時間さえかければ、人は無限に多くのことを覚えられるのでしょうか。円周率を10万桁暗唱した方の話などをきくと、ひょっとすると人間の記憶力は無限なのかも知れない。頑張ればいくらでも沢山覚えられるのかもしれない、なんて気もしてきます。

イリノイ大学のVossさんは、この疑問に果敢に取り組みました(※1)。

Vossさんの行った実験はとてもシンプルなものです。

まず初めに彼は、大量の写真(4980枚!)を集めました。そして、ある写真が出てきたときには左ボタン、またある写真が出てきたときには右ボタンを押すという割り振りを決めました。これで4980コ、覚えるべきコト(写真と左右ボタンの組み合わせ)が準備できました。そして、それをひたすら覚えていったのです。

ちなみに写真は風景や人物、動物、建物などありふれた題材のものでした。写真とボタンの関係は、コンピュータによって全くランダムに決められていました。

記憶していく手順は次のようなものです。まず30枚の写真が次々とパソコン画面に出てきます。そして右または左のボタンを押すと、正解か間違いかが分かります。写真とボタンの関係はコンピュータが決めているので、最初は当てずっぽうで答えるしかありません。30枚の写真が2回ずつ出てきて、これで60回になります。これが「覚える分」になります。

それとは別に、既に覚えた分の写真も60枚出てきます。これが「記憶テスト分」になります。つまり「覚える分」と「テスト分」で合計して120回、写真がパソコン画面に出てくるので、ひたすら右か左のボタンを押していきます。この120回が1セットになります。実験心理学の用語を使うと120トライアルで1セッションと言う表現になります。こうしたセッションをひたすら繰り返したのです。どれだけ繰り返したかというと、だいたい1日3回ずつ、約1年間の実験だったとのことです。都合13万回ほど「写真を見てはボタンを押す」という作業を繰り返したことになります。良くも飽きなかったものだと感心します。

ちなみに、あるセッションで「覚える分」の正解率が85%よりも高くなると、その30枚はまとめて「覚えた分」とされました。つまり「覚えた分の写真」は、実験を繰り返すにつれて、どんどん増えていくことになります。でも「覚えた分」とされている写真が、本当に覚えられているとは限りません。それで「記憶テスト分」が必要になるのですね。Vossさんは、約13万回の繰り返しのうち、記憶テスト分に当たる58,560回のボタン押しについて、分析をしてみました。

さて結果です。実験が進んで「覚えた分」の写真が増えて行くにつれて「記憶テスト」での正答率は下がっていきました。つまり、以前に覚えたはずの写真であっても、あまりに多く(数千枚)の写真になってくると、さすがに全部は覚え切れていなかったということです。最終的には、4980枚全てが「覚えた分」とされた時点で正解率は60%ほどにまで低下しました。しかし正解率が50%までは下がりませんでした。

ここで50%という数字は大きな意味を持ちます。写真の半分は右ボタン、半分は左ボタンと組み合わせられていたので、当てずっぽうで答えたとしても正解する確率が50%あったからです。それより正答率が高かったということは、全部をカンペキに覚えてはいないものの、ある程度はちゃんと覚えていた、ということを意味します。

それでは、実際にどれくらいちゃんと覚えられていたのでしょうか?具体的な数字は数学的に推測することしかできません。Vossさんはいくつかの数字を試算していますが、一つの計算方法では「覚えた写真」4980コのうち、4105コ。82.4%くらいをちゃんと覚えていたのではないかと報告しています。結構ちゃんと覚えていたということですね。大したものです。

しかし、実はこの研究は、ここで終わりではないのです。

上の説明を読んでいて、なんでそんな、何も生活の役に立たないような無意味なコトを覚えるような実験をしたんだろう?と疑問に思った方はいないでしょうか。私たちが何かを覚えるのは、それが何かの役に立つからであって、何の役にも立たないコトを覚える能力を調べても意味はないんじゃないだろうか。

その疑問はもっともです。でもVossさんがこの実験を行った狙いは全く別の所にあったのです。それはヒトの記憶能力を、他の動物の記憶能力と比べるという狙いでした。実は、Vossさんの実験とほとんど全く同じものを、ハトで行った実験とヒヒで行った実験があるのです(※2)。

つまりVossさんは「ヒトはハトやヒヒよりも記憶力が良いのか?」ということを調べたのですね。

「写真とボタンの左右の組み合わせ」なんてものは、ヒトにとってもハトにとってもヒヒにとっても無意味と考えられます。その点では、3種の動物にとってイコールコンディション、ハンデなしで記憶力の競争ができるわけです。

すでにハトとヒヒの研究から、ヒヒの方が記憶力に優れる(たくさん覚えられる)ことは分かっていました。それならヒトはヒヒよりも更に記憶力がよかったのでしょうか?実はそうではありませんでした。

ヒヒの記憶力についても、Vossさんの研究と同じく2つの数字が出ています。一つ目の数字については、ヒヒは「覚えた写真」のうち83.6%を本当に覚えられていたと計算されました。これはVossさんがヒトについて報告している82.4%とほとんど同じ数字です。ちなみにヒヒの実験では「覚えた写真」は約6000枚でした。元々覚えねばならなかった写真の数はヒトの場合よりも多かったのですが、それでも、同じくらいの割合を覚えられていたことになります。

「ヒトは高度な知能を持つ動物である。」
「ヒトは頭が良い。」

こういった表現を目にすることは少なくありません。でもそれは本当でしょうか?そもそも「頭が良い」とは具体的にどういうことを意味するのでしょうか?

ヒトの知性がもたらした文明社会の複雑さをみると、ヒトが頭の良い動物であることは当たり前すぎて、今さら真面目に考える必要のないことのように思いがちです。Vossさんの研究は、そうした「当たり前に思えること」にチャレンジし、常識が必ずしも科学的な根拠によって支持されないことを明らかにしたものと言えるのではないでしょうか。

最後に。ここまで読んでいて、まだ何か違和感が残っている方はいないでしょうか?

考えてみて下さい。毎回120枚写真を見る実験を1日3回、1年間続ける。そんな酔狂に誰が付き合ってくれたのでしょうか?つまり「写真とボタン」を一生懸命覚えたのは、一体誰だったのでしょうか??

そう。Vossさん本人だったのです。この研究は、Vossさんという一人の人物が、自分の”こころ”(記憶力)を1年間(実験の準備とデータ分析を含めれば、おそらくもっと長期間)に渡って探求したものだったのです(※3)。

Vossさんが研究者でもありデータ提供者でもあったため、私たち研究者が読むと笑いを誘うような場所が、論文には何カ所も出てきます。最後に一つだけ例を挙げてみましょう。なぜ記憶力には限界があるという結果になったのか、その理由を色々と考えてみているところの一説です。

(記憶力に限界があるという結果になったのは)私の記憶力が異常に低かったせいかもしれない。しかし私の知能が平均未満だったから、記憶力の数値が低くなったと考えるのは非合理的だ。なぜなら私は最近受けたWAIS-III標準知能検査で平均以上(IQにして100以上)の成績だったからだ。

One possibility is that my memory is abnormally poor. However, it is unreasonable to assume that my estimates were low due to below-average intellectual ability, given that I recently scored above average (>100) on the WAIS-III standardized test for IQ.


客観性・合理性が何よりも求められる科学論文で「自分は頭が悪くないです!」と主張しているのです。こんな論文、ヒライシは今まで読んだことありません。そして、この論文に限れば自己弁護がちっとも非科学的にはなっていない。客観科学とギャグが紙一重であることを示す、また一つの例と言えるかも知れません。

こころ学、今回は研究者が自らのこころに挑んだ研究を紹介しました。今後ともどうぞご贔屓に。

※1 Voss, J. L. (2009). Long-term associative memory capacity in man. Psychonomic Bulletin and Review, 16(6), 1076-1081. "ある人の長期連合記憶能力"

※2 Fagot, J., & Cook, R. G. (2006). Evidence for large long-term memory capacities in baboons and pigeons and its implications for learning and the evolution of cognition. Proceedings of the National Academy of Sciences, 103(46), 17564-17567. "ハトとヒヒにおける優れた長期記憶能力の証拠および学習と認知進化への示唆"

※3 ちなみにヒヒは2頭、ハトも2羽が実験に参加しています。そして実験期間はもっと長く3~5年かかっています。ヒヒやハトにとっては良い迷惑だったかも知れません...。

- Illustration by Shinya Yamamoto.

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