怖い顔の目的、あるいは楳図かずおについての一考察

  • 2011-11-30 (水)

楳図かずおでも何でも良いので、ホラーやサスペンスの漫画や映画で、恐怖に襲われて叫んでいる被害者の顔を想像してください。感情の心理学という研究領域では、それを「恐怖顔」 fearful face とか「恐怖表情」fearful facial expression などと呼びます。人類学的な調査に基づいて、この「恐怖表情」をはじめ、「怒り」、「嫌悪」、「幸福」、「悲しみ」、「驚き」といった表情は、文化や民族によらず人間一般に共通していると考えられており、「基本6感情」と呼ばれることもあります。

さて、仮にこうした顔表情がヒト一般、すなわちホモ・サピエンス Homo sapiens という種一般に見られるとすると、そこには何らかの進化的背景がありそうだ、という気がしてきます。事実、進化理論を最初に唱えたチャールズ・ダーウィン Charles Darwin も、既にこの点に気付いていたようで、『人及び動物の表情について The Expressions of Emotions in Man and Animalsという著作で、人間の顔表情が動物のそれから連続的に進化してきた可能性を提唱しています。

しかしそれにしても、それぞれの表情は、なぜ「この形」になったのでしょうか? 

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たとえば恐怖表情の特徴は、大きく見開かれた眼や、「ヒーッ」と叫び声をあげそうな口です。一方で「嫌悪表情」と呼ばれるものがあるのですが、これは要するに、気持ち悪いものを見た時、思わず「うっ!」とか「ゲッ!」とかいった感じになってしまった顔のことです。こちらの特徴は、眼をひそめる、鼻をしかめるといった感じです。(周囲を気にしつつ)ちょっと自分でやっていただければすぐ分かると思います。問題は、なぜそれぞれの表情が、こうした「特定の形」に収まったのか? 恐怖と嫌悪。聞けば結構似ている感じもします。別に逆の組み合わせでも良かったのでは?

この疑問について、カナダのトロント大学の研究者アダム・アンダーソン Adam Anderson たちが非常に面白い研究を報告しています。彼らの、というか実はダーウィンも考えていたことらしいのですが、ともかくその仮説とは、それぞれの表情にはちゃんと「機能」が備わっている、というものです。たとえば恐怖表情には、「ヒーッ」となるような恐怖が生じる危険な状況(例:モンスターに襲われる)を切り抜けるための「機能」がある。あるいは嫌悪表情には、「ゲッ!」となるような嫌な状況(例:汚物やゴキブリが眼の前に飛んできた)を切り抜けるための、何らかの「機能」がある、と考えるわけです。より具体的に言うと、恐怖表情の機能とは、「身の回りにある危険をいち早く察知すること」であり、嫌悪表情の機能とは、「病原菌や毒などが体内に入るのを防ぐこと」ではないか、と彼らは考えました。

この仮説をテストするため、彼らは様々な測定と実験を行いました。最初のターゲットは視覚です。視覚の効率性が、顔表情によってどの程度変化するかを調べます。まずは視野の広さ。上の仮説から、恐怖表情では視野が広くなり、情報収集が容易になるが、嫌悪表情では視野が狭くなり、眼に異物が入るのを防ごうとするだろう、という予測が立ちます。具体的には、まず実験参加者に、「眉を上げ、口を開いて、唇は横に引っ張って」などと、ある一定の決まったインストラクションを説明して、特定の表情(恐怖か嫌悪)を作ってもらいます。またその時の顔を撮影させてもらいます(思うに、これは参加者にとってかなり恥ずかしい場面かと)。そして視野の広さを測ります。視野の測定には、(1) 参加者自身が眼の前に置かれた物差し状のものを見て、主観的に報告してもらう、(2) 視野の端の方から光る点を動かして、見えたらすぐにボタンを押してもらう、という二つの方法を用いました。結果、恐怖表情は、中立的な表情の時と比べ、特に上方向の視野を拡張し、逆に嫌悪表情は視野を全体的に狭めていることがはっきりしました。もうひとつ視覚について彼らが調べたのは、眼を動かす速度です。恐怖表情の時の方が、より素早く眼を動かして、より速い情報収集を行っているだろうと予測できます。このテストでもまた、実験参加者に表情を作ってもらった状態で、画面上の二つの点をできるだけ素早く、交互に見てもらい、その時の眼の運動速度をアイ・トラッカーという機械を使って測定しました。結果は予測通り、中立表情と比べて恐怖では速度が増し、嫌悪では遅くなっていました。

二つ目の検証点は、嗅覚、つまり鼻です。まず、息を吸う量に表情によって違いがあるかどうかを調べてみると、嫌悪、中立、恐怖の順に、吸う量が増えていました。恐怖が生じる状況では外界の情報をたくさん取りこみ、嫌悪ではその逆という仮説通りの結果です。しかし測定する時に顔を覆うマスクを使ったので、表情によってはマスクに隙間などが出来ていたのかもしれないということで、他の指標、鼻内部の空気の温度も測ってみました。吸う量が多いほど、温度変化が大きくなるはずです。結果、これも同じく予測通りのパターンを示してくれました。そして最後の実験では、ではこれらの鼻に関する結果は、顔表情そのものに由来するのか、それとも顔表情を作ることの間接的な影響なのかを調べました。参加者の鼻の内部構造を、核磁気共鳴画像法 Magnetic Resonance Imaging (MRI) で測定し、鼻の内側の空間の大きさを測定します。するとやはりこれも、嫌悪、中立、恐怖の順に大きくなっており、吸う息の量の変化は、構造的な変化によって生じていることが確認できました。

というわけで、当初の仮説を支持するデータが得られたと言えるでしょう。恐怖表情は危険の察知に、嫌悪表情は体内に異物が入るのを防ぐために、役立つ「機能」を持っている可能性が高いようです。ただ、ここで注釈が必要なのですが、間違いなく顔表情は、他人に自分の感情の状態を伝えるためのシグナルとして「も」働きます。想像してもらえればすぐ分かるのですが、たとえばカフェで隣に座っている人が、いきなり「ヒーッ」てな感じの恐怖表情になったとしましょう。こちらもちょっとパニックになって、何がその恐怖の原因なのか、必死にあたりを見回すことでしょう。これはまさに社会的シグナルとして顔表所が機能している例で、この側面も間違いなく重要です。しかしここでより大事なことは、顔表情が単にシグナルとしての役割しかないのなら、意味(恐怖・嫌悪)と記号(恐怖表情・嫌悪表情)との対応はランダムであってもいいはずなのです。分かりやすい例が言語で、意味と記号の対応は、言語によってバラバラで、たとえば「恐怖」という意味は、日本語では「恐怖」という記号で伝達されますが、英語では "fear" 、ドイツ語では "Angst"、タイ語では "ความหวาดกลัว" です(最後は僕も読めません。文字と発音の関係も、記号の典型例です)。基本的な顔表情が文化に依存せず、人類一般に普遍的であることは、それらが記号としての役割以外の、何らかの理由によって決められている可能性を示唆しています。おそらく真実は、Anderson たちが提唱しているような「機能」がもともとあり、その上に、それを利用して、社会的シグナルとしての機能が付加されてきたのではないでしょうか。この点を明確にするためにも、他の動物種、たとえばチンパンジーなどヒトと近縁の霊長類で、同様の結果が得られるのかを調べることができれば、面白いかもしれません。私たちの表情は、進化の歴史の中で、いつ頃獲得されたものなのでしょうか。

そして最後に楳図かずおです。なぜ彼の漫画はそんなに恐ろしいのか? 上の研究を踏まえてもう一度考えてみましょう。思うに、彼の作品からは、「恐怖の匂い」のようなものが漂ってきて、読んでいる自分の体の中にまでそれが入ってくるような気がします。惨劇の犠牲者となるキャラクターたちは、いつも眼や口を、これ以上無理だというほどに大きく開いています。殺人鬼の情報を一刻も早く知ろうとして、彼らは眼を開け口を開けるわけです。ところがそれに加えて、彼の漫画では、汚物、錆びたハサミ、切り裂かれた体といった、感染症をイメージさせるものが頻繁に出てきます。つまりそれは恐怖の反対、嫌悪表情を引き起こすもの、眼や口を閉ざすべきものです。しかし恐怖に駆られた犠牲者たちは、そうした状況であってもなお、眼を開け、口を開けて、迫りくる殺人鬼の情報を察知し続けなくてはなりません。恐怖から逃れようとすればするほど、自分のもろい体の内側が暴露されていくというジレンマ。ひょっとしたらそのあたりに、楳図かずおの恐怖の秘密があるのかもしれません。

Expressing fear enhances sensory acquisition. (恐怖表出は知覚的情報収集を促進する)
Susskind, J. M., Lee, D. H., Cusi, A. Feiman, R., Grabski, W., & Anderson, A. (2008) Nature Neuroscience, 11, 843-850. doi:10.1038/nn.2138

- Illustration by Shinya Yamamoto.

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