- 2011-02-15 (火)
子どもの頃のある冬の晩、ふと見上げた夜空に三つの明るい星が並んでいることに気が付きました。きれいな星を見つけたことを親に得意げに伝えたら「あれはオリオン座だよ」と簡単に返されました。その時に「ああ、みんな思うことは同じなんだな」と感じたことを覚えています。
オリオン座という名前は知っていました。でも、それがどんな星座かは知りませんでした。それでも、あの三つ星は「特別なもの」としてヒライシの目に映ったのです。20世紀のアジアの片隅に住む少年にも、古代ギリシャの人々にも、あの三つ星は特別に見える。古代のシュメール文化、エジプト、中国などでも、オリオンの三つ星は特別なものと考えられていたそうです(Wikipeida; オリオン座)。時代も言葉も文化も違う人々が、同じものをみて同じように感じる。人間にはさまざまな違いがあるけれど、同じ「こころ」もあるのだと思うと、ちょっと嬉しくなります。今回はそんな研究を紹介しましょう。テーマは日本文化。能です。
「能面のような」という表現があります。多くの場合には、表情がないこと、表情が推し量れないことを指して使われる表現でしょう。しかし能面は「能」という"演劇"の場で用いられるものです。演劇ですから、そこでは登場人物のさまざまな感情が表現されるはず。表情(感情)のわからない能面を用いて、いかにして感情を表現するのか。そこに能という芸術の奥義が隠されているようにも思われます。Lyonsさんを中心とした研究グループは、その奥義の一端に触れようとしました(注1)。彼らが着目したのは、面の縦の傾き。そう、前にこころ学で「写真うつり」にかかわるものとして紹介したのと、同じポイントです。
能の世界では、感情を表現するさまざまな姿勢があるそうです。例えば幸せなときの「照らす」姿勢では、顔は上を向きます。悲しみを表す「曇らす」姿勢では、顔は下を向きます。嬉しかったら上を向くし、悲しかったらうつむく。『上を向いて歩こう』なんて歌もあるし、まぁ、それはそうだろ、という話のように思えます。しかし「それはまぁそうだろ」という話でも、科学的に確かめてみる価値はあります。
そこでLyonsさんたちの研究グループでは、能面を上下さまざまに傾けると、どんな表情に見えるか、実験してみました。使った面は江戸時代の孫次郎。孫次郎というと男面と思うかも知れませんが(ヒライシだけですか?)、女性の面です。多くの方が「能面」と言われて思い浮かべるアレと思ってだいたい間違いないでしょう。ちゃんと能舞台の上で、舞台を演じるときの照明で、角度を変えて何枚も写真を撮りました。舞台での能面の表情を知りたいと思ったら、これは大事な手続きです。
そして、さまざまな角度の写真を、ロンドン大学の学部生、大学院生ならびに教職員の合計20名(男女10名ずつ)に見てもらって、「Happy」または「Sad」どちらの顔に見えるか、左右のボタンで答えてもらったのです。さて結果はどうなったでしょうか?上向きは晴れ晴れと照らされた表情、下向きは悲しみに曇った表情に見えたのでしょうか?
結果はそうなりませんでした。
能面は、上を向くほど悲しんでいるように見え、下を向くほど喜んでいるように見えたのです。
そりゃ、イギリス人にきいたからじゃないの?そう思った方もいるかと思います。実際、ロンドン大学で参加してくれた方々は、能面を見たことも触れたこともなく、日本に行ったこともない20人だったとのこと。文化が違うと顔の違うところを見ているという話もありますし。
それじゃ、ということで京都は同志社大学の20名にも集まってもらって実験をしました。京都は街中にふつうに能楽堂があるようなところ。同志社大学はその中でも御所のすぐ北側、京都のど真ん中と言えるところに立地しています。ロンドン大学と比べるのに、これ以上の大学は無いでしょう(注2)。
それでも結果は同じ。上向きは「悲しみ」、下向きは「喜び」と見えたというのです。この後、それぞれの大学で2つずつ実験を追加していますが(1つは能面、1つは実人物の写真)、やはり結果は同じでした(注3)。
それでもまだ疑っているあなた。Lyonsさんの研究を紹介したWebサイトがあるので、ご自身の目で確かめてみて下さい。
なぜ、こんな結果になったのでしょうか?ポイントは能面の口元にあったようです。能面が上を向くと口の端(口角)が下がります。このため悲しんでいるように見えるのです。逆に能面が下を向くと、口角は上がり、笑みを浮かべているように見えます。そして、口角の上下で「悲しみ」や「喜び」の表情が見えるのは、世界中の人間に共通してみられることなのです(注4)。
全身で幸福を表しながら表情は悲しく。悲しみに俯きつつも、その顔には笑みが浮かんでいる。なんとも謎めいています。この謎こそが、能の奥義の一つなのかも知れません。Lyonsさんたちも論文に書いています。
...it is notable that Zeami (1363-1443), the most influential early Noh dramatist, ranked yugen, or subtle profundity, as the highest aesthetic principle of Noh (Zeami, 1968). In the framework of Noh world, a joyful pose tempered with a sligthly sad mouth may be appreciated as more beautiful than a direct expression of joy. Likewise, sadness or pain masked with a smiling mouth suggests more emotional complexity than a display of pure sadness.
...初期の能楽において最も大きな影響力を持った世阿弥が「幽玄」、すなわち「微かな深み(subtle profundity)」を、能における最上の美としていることは注目に値する。能の世界においては、微かな悲しみが添えられた喜びは、直截にそれを表すよりも、より美しく見えるのかも知れない。同じように、悲しみや痛みが、口元の笑みによって和らげられることで、単純な悲しみの表現よりも、より深い感情的複雑さが表現される。
Lyonsさんたちの推測が正しければ、研究に使われた能面が作られた鎌倉時代の人たちもまた、私たちと同じように、能面に「喜び」や「悲しみ」、そして幽玄の美を見たのかも知れません。鎌倉時代と言えば、今は同志社大学がある室町通の辺りに、将来、足利将軍による幕府が作られることすら、まだ想像もできないような時代。侍がリアルに街を歩いていた時代です。そんな大昔の人たちも、私たちと同じ「こころ」を持っていた。同じ顔して笑い、同じ顔をして悲しんだのではないかと思うと、なんだか不思議な感じがします。
研究が発表された西暦2000年当時、Lyonsさんは奈良にあるATRという研究所で働いていました。研究グループは日本人メンバー含めた国際的なものです。異なる文化的背景を持つ研究者たちが、ロンドンと京都の参加者から得られたデータを前に、奈良の地で、どのようなディスカッションをしつつ研究をまとめ上げたのかと考えると、それもまた楽しいものです(注4)。
こころ学、今回は日本文化をめぐる国際的研究を紹介してみました。今後ともどうぞご贔屓に。
注1:Lyons, M. J., Campbell, R., Plante, A., Coleman, M., Kamachi, M., & Akamatsu, S. (2000). The Noh mask effect: vertical viewpoint dependence of facial expression perception. Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences, 267(1459), 2239-2245.
注2:しかし、研究場所がATR@奈良であったことを考えると、御所北の今出川キャンパスではなく、洛中を遠く外れた京田辺キャンパスで参加者を募った可能性もあります。(^_^;
注3:日英の参加者で、結果が全く同じだったわけではありません。例えば同志社大学の参加者の場合、面がずうっと下を向くと「喜び」よりも「悲しみ」の表情であると考える人が増えました。しかしこれは顔の輪郭が見えていたときだけで(実験1)、顔の輪郭を見えなくすると、日英の違いはほとんど無くなりました。Lyonsさんたちは、日本人は口元の変化よりも、顔全体の向きを重視したからではないかと推測しています。また別の違いとして、ちょっと上向きくらいの能面だと、日本人は「喜び」と考える人が多かったこともあります。これが何故なのかは、あんまり良く分からないね、日本人の方が能面に触れることが多いからかな?とLyonsさんたちは書いています。
注4:こうした表情認知の普遍性は、Paul Ekmanという研究者が徹底的に調べています。Ekman博士は、西欧人との交流がほとんど無い地域にまで出かけ、世界中のどこでも、喜んでいる顔、悲しんでいる顔、怖がっている顔、怒っている顔、嫌だなって顔、そして驚いている顔が同じであることを明らかにしています。
注5:実はLyonsさんたちと同時に、鎌倉学園女子大学の蓑下さんを中心とした研究グループでも、能面の角度の違いによる表情変化を研究しています。彼女らの研究は、能面の微妙な表情変化への「気づき」が、統合失調症などの患者さんでは異なるかも知れない、という、これまた大変に興味深いものです。ご興味ある方はこちらもぜひご覧下さい。
Minoshita, S., Morita, N., Yamashita, T., Yoshikawa, M., Kikuchi, T., & Satoh, S. (2005). Recognition of affect in facial expression using the Noh Mask Test: Comparison of individuals with schizophrenia and normal controls. Psychiatry & Clinical Neurosciences, 59(1), 4-10. doi:10.1111/j.1440-1819.2005.01325.x
Minoshita, S., Satoh, S., Morita, N., Tagawa, A., & Kikuchi, T. (1999). The Noh mask test for analysis of recognition of facial expression. Psychiatry & Clinical Neurosciences, 53(1), 83-89.
簑下成子, 佐藤親次, 森田展彰, 中村俊規, 松崎一葉, 菊地正, & 小田晋. (1997). 能面を用いた表情認知の研究. 人間工学, 33(2), 79-86.
- Illustration by Shinya Yamamoto.
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